18世紀後期の畿内で、幕府が実施した測量と、それを元に作成された地図の実態を明らかにする検証として挙げられる地図が、古くよりの段階で、統一して山野や藪などを測量して作られたという点から、この地図はとても大切な資料として評価されているのではないでしょうか。そして、日本の地図の歴史をたどる上で、また、これからの新しい地図を考えていく上で、重大な事柄であったと位置付けられていくのではないでしょうか。延宝検地と呼ばれる検地の条目によりますと、小物成地とされた箇所の測量作業は、基本的に実施することが確定されているとされているが、それが難しく、行えないと判断した際には、作業をしなくてもいいという事も追記されていると言います。しかし、そういった場合には、太閤検地よろしく、各村からの規定によって年貢高を決定していたと考えられるのではないでしょうか。また、検討した地域を例に挙げてみても、遠方の検地に示された山野の範囲が実際よりも狭いというケースが多いとされるのは、はっきり言って厳密な調査、測量が行われていなかったとされるのではないでしょうか。これに対して、宝暦期の再検地が実施され、山野の測量という観点から見ると、大きく異なる状況が確認されているとされる。その見分や吟味は、対象となる地域周辺に「廻り検地」を実施し、測量、調査した結果から「分間絵図」を作成するという作業を含んだものであったとされています。もちろんこれが、新しい開拓地を把握し、統一的に支配(管理)するという目的を持っていたことは明らかでしょう。地図の歴史上避けては通れない「廻り検地」というものは、当時から信頼と力を示すものであったのではないでしょうか。