幕府主体の地図が、どのように権力を示していたのか、例として摂津国における天明期の山論分析の際に出会った、ある地図の話をあげてみるとしましょう。この山論は、ある村の北部にある山の林資源の利用を巡って発生したものであり、その両山は幕府の領地として代官の管轄地とされることになっていたと言われています。そしてそれぞれの山は、それぞれの山として登録管理されることになったそうです。この論争は、同所での伐採を巡ったのが発生の原因とされたと言われている。この時、各村での論所の立会絵図が作成されたとされ、今回、課題として取り上げる地図が、それであると言えるでしょう。これは、測量帳や日記などから検討するに「廻り検地」が実施されていることが分かったとされています。そして双方の役人や絵師がその作業を担ったとされている。しかし、ここで注目すべきは、これまで指摘されていなかった、測量から地図作成までの人々の貢献であると言えるのではないでしょうか。測量の対応は場所により差はあったとされるが、特に平地に接する部分は異なる対応が見られたとされている。論山全てを測量すべきであると主張する側に対し、そもそもその土地は調査済みであり、領境は明瞭だとする地図で反論があったとされ、測量帳や立会絵図の内容から判定され、その地図が有効であったということが明らかにされた例と言えるのではないでしょうか。このことから、訴訟資料である山論絵図が、同時期に幕府の製作した地図によって規定されることがあるということを示していると言えるのではないでしょうか。つまり、公の要素を充分に含んでいたということを明示していると言えるのではないでしょうか。